正当にこわがる
「正しくおそれる」表題とは少し異なるこの言葉の方が、みなさんは聞き慣れているかもしれません。
震災以後、また最近の感染症に関連して「科学的な知見を拠り所にしておそれるべきことをおそれ、そうでないことは必要以上におそれないようにしましょう」という意味合いで使われているこの言葉ですが、物理学者・随筆家の寺田寅彦さんの言葉の引用とされることが多いものの、実際にそこに書かれているのは、実は表題の「正当にこわがる」という言葉です。
今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。(略)「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。
寺田寅彦「小爆発二件」より
駅員が示した「おごそか」な表情とありますが、おごそかとは威儀正しい様子のことであり、恐れ(=恐がる)というよりも、畏れ(=畏敬の念)を表している感じがします。そして「正しく」ではなく「正当に」という言葉により、それが事実か否か・合っているか間違っているかというよりは、自然を畏れることは道理にかなっているということを表しているようにも感じられます。
このことについて作家の佐伯一麦さんは「浅間山の爆発についての随筆の中での寅彦は、『正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた』と記している。正しく、ではなく正当に、です。科学者たちの言うニュアンスとは正反対のように私には思えます」と述べていますが、みなさんはどう感じられますか?
寺田寅彦さんのいうように、私たちは意図せず「こわがらな過ぎたりこわがり過ぎたり」します。またそれはどちらか片方に固定されるものではなく、自身の状態やそのとき置かれた状況や立場により揺れ動くものです。そして揺れ動いているからこそ、その両方を大切にすることもできるのではないでしょうか。
「正しくおそれて」今それぞれができることに尽力しながらも「正当にこわがっている」今の自分に気づきそれをまるごと受け入れる。それは改めて自分を大切にするための大きな一歩になるでしょう。そしてそこにまたヨガがお手伝いできることがあるのかもしれません。
(松原 昌代)